2018年6月30日土曜日

6月22日 教皇演説 全文

神言修道会総会議代議員との謁見における 
教皇フランシスコの演説
2018年6月22日、金曜日
クレメンティナ・ホール


兄弟姉妹の皆さん、

 最初に、管区長さんにあいさつし、神言会全体の名において私に向けて下さった言葉に感謝させてください。皆さん、ようこそいらっしゃいました。総会議を機に、この出会いの場で皆さんと共に居られる喜びを表明したいと思います。総会議はいつも、教会や世界全体にとってと同様、神言会一家全体にとって恵みの時を成します。そしてキリストに忠実に従うということが扱われているのですから、聖アーノルド・ヤンセンが好んで「貧しい人々の父」と呼んだ聖霊の臨席を願いましょう。
 皆さんの作業を導くテーマには、明らかにパウロ的で宣教的な味付けがされています。《「キリストの愛が私たちを駆り立てる」(IIコリント5章14節):み言葉に根ざし、その使命に献身して》。私たちを個人的刷新、共同体的刷新に促し、出かけて行き福音を告げ知らせる献身を強めるのは、キリストの愛です。このためには、根源を見直すこと、どこに根ざしているかを見ること、皆さんの共同体や、皆さんがいる世界の端々で実現している事業に命を与えている樹液は何なのかを見る必要性があるでしょう。この源泉への眼差しから、三つの言葉:「信頼」、「宣言」、「兄弟」という言葉を巡って回想したいと思います。
 まずは、「信頼」。神とその聖なる摂理に対する信頼です。というのも、自分を捨てて神の御手の中に委ねきることができるというのは、私たちのキリスト者としての生活、奉献生活者としての生活の中での本質だからです。私たちの、神への信頼、その摂理的な愛や慈しみに満ちた愛への信頼はどの程度にまで到達しているでしょうか。私たちは、自分たちの宣教において、身を危険にさらし、勇気を持ち、決断力を持って臨む心構えができているでしょうか。聖アーノルドは、宣教師の生活には神への勇気と信頼を失っていい理由などありえない、と確信していました。神の愛を体験したことのある私たちの間で、恐れやひきこもりを認めることが無いようにしましょう。また、私たちが聖霊の働きにブレーキをかけたり障害を置いたりする存在にならないようにしましょう。与えられた賜物、「聖なる助けを示す数多くの試練」に意識を向けながら、皆さんが主への信頼を刷新し、恐れなく出かけて行き、多くの人々を幸せにする福音の喜びの証しをするようにと励まします。日々祈りと秘跡の中で主との出会いのうちに新たにされる、この主への信頼が、皆さんの活動と計画全てのうちに、神のみ旨を行うことを模索しつつ、自分自身の生活を見直すために、識別に対して開かれた態度でいられるためにも役立ちますように。
 二つ目の言葉は、「宣言」。皆さんのカリスマにおいて、神のみ言葉を宣べ伝えることは、本質です。皆さんはこれを、いつでもどこでも、すべての人に、あらゆる方法、可能性を駆使して、自分たちの間でも教会とも一致した弟子であり宣教者である者から成る共同体を作りながら行います。全神言会員の心の中では、聖パウロの「福音を宣べ伝えないなら私は呪われよ(不幸なのです)!」(Iコリント9章16節)という言葉を消すことのない炎のように燃えていなければなりません。それは、皆さんに先立った多くの宣教師男女が意識していたことでした。それは、皆さんに託されたトーチであり、今日皆さんの目の前にある挑戦でもあります。皆さんの創立者は、皆さんのことをアド・ジェンテス、諸国民のための宣教師であると考えました。「全世界に行って福音を宣べ伝えよ」(マルコ16章15節)。宣教の派遣命令は、境界線も文化の壁も知りません。なぜなら全世界が宣教地だからです。
これは少し無秩序かもしれませんが、大切なのは行くことです。その後で、もっと後になって、それが整えられる(秩序となる)のです。けれど、宣教者の生活はいつでも無秩序です。命令(秩序)に安定をもたらすものとしては、祈りがあるだけです。そして祈りつつ、前進するのです。
愛する兄弟の皆さん、もし皆さんが神のみことばに錨を降ろし、みことばに根を張り、自分たちの生活の基礎としてみ言葉を受け止め、み言葉が皆さんの心の中で燃えるように(ルカ24章32節参照)と身を委ねるなら、このみ言葉が皆さんを変えていき、皆さん一人ひとりを本物の宣教師にしてゆきます。神のみ言葉によって生き、みことばによって聖なるものと変えてもらえるように委ねなさい。そうすれば、皆さんはみ言葉のために生きるようになります。
 三つめに提示する言葉は、「兄弟」。私たちは一人ぼっちではありません。私たちは教会です。私たちは民です。私たちには人生の道、私たち独自の召命の道を、横で共に巡りゆく兄弟姉妹がいるのです。私たちを魅了し、私たちをぎゅっと集める主によって一つになった、自分たちが人であることを受け止め、自分たち自身であることを捨てない兄弟から成る共同体です。皆さんは神から、忠実であり続け、違いを見せる力と喜びを受け、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と私たちに指し示す道を続けます。一致して歩み、そのメンバーたちが愛し合う共同体を目にするのは素敵なことです。これは一番の福音宣教です。ケンカをしたとしても、言い合いをしたとしてもです。というのも、互いに愛し合う良い家族にはどこでも、ケンカも言い合いもあるからです。けれど、その後に調和があり、平和があるのです。世界も教会も、多様性や諸文化の交じった状態にもかかわらず、この兄弟愛に触れる必要があります。それは皆さんが手にしている豊かさの一つです。司祭も修道士も信徒も一つの家族のメンバーだと感じ、信仰と同じカリスマを分かち合い、それを生き、誰もが他の人々への奉仕をし、誰も他の人の上位に立たない共同体です。
 このように一致して、皆さんは、社会から疎外され、外にいる他の兄弟たちと出会うために出かけて行く困難にも務めにも向き合うことができるでしょう。私たちは除外の文化、使い捨ての文化の中で生きています。そうした除外された兄弟たち、運命に見放された兄弟たち、ひとの利己的な関心のために踏みにじられた兄弟たちなどに出会いに行くこと。彼らも、私たちの助けを必要とし、彼らとの出会いのために出かけて行く神の現存を体験する必要を感じている、私たちの兄弟なのです。そこでも、皆さんはパン(食糧)と正義を求める人々の叫びに耳を傾け、答えながら、より尊厳に満ちた生活を求める人々に平和と統合的なプロモーションをもたらしながら、現代の数多くの男性、女性の悲しみと苦しみに慰めをもたらし、希望を持つ意義を提供しながら、いつくしみのわざを通して真福八端の精神を現実のものとするために派遣されているのです。これが、兄弟(修道者)であり宣教者である皆さんの歩みを導く方位磁針でありますように。
 二つのことがあります。一つは起源です。起源というのは、ただの歴史でも、ただの物事でも、抽象的な霊性でもありません。起源というのは根であり、根が命をもたらせるようになるには、根に手間をかけ、水をやらなければなりません。根を見つめ、求めなければなりません。皆さんに起源に根ざしているようにと言いましたが、つまり、皆さんの起源が、皆さんを育てる根であるように、ということです。二つ目のことは、もの悲しい考えと捉えないでいただきたいのですが、墓所のことを考えてください。遠いところにある墓所、アジアの、アフリカの、アマゾンの奥地にある墓所…。皆さんのメンバーのどれほどがそこにいて、その墓石に名が読まれているでしょう。若くして亡くなった会員がいます。命を注ぎ込んだからです。起源…。墓所も、皆さんにとっての起源です。神さまが皆さんを祝福してくださいますように。私のために祈ってください。そして、起源と墓所、忘れないでください。ありがとう。

(教皇フランシスコ)

2018年6月26日火曜日

ニュースレター002 6月22日の活動報告

ニュースレター002 622日 金曜日

 7時半の朝食を告げるベルが鳴る前にすでに朝食のために全員が大急ぎで降りて来たあの雰囲気は、なんとワイルドな興奮でしょう! ほとんどがすでにローマンカラーを着用し、オオカミのように食事を済ませ、自室に戻って出かける前の最後のチェックを済ませていました。今日は教皇フランシスコの日! 私たちは教皇に会うために、一日フリーになりました。しかも炎天下ですでにへとへとになっている大衆のように100ヤードも離れているのではなく、私たちは近づき、個人的に会い、しかも握手まですることができました。午前930分に、150人全員が三つのバスに乗り込み、ローマへ向けて山から下りました。

 私の乗ったバスの中には祝いの雰囲気があり、朝の重い交通渋滞の喧騒とは全く違う雰囲気になっていました。一時間後に、私たちはバチカンの裏でバスから降り、伝説によれば聖ペトロが頭を下にして十字架にかけられるようにと自ら願いでた偉大なオベリスクの影にある聖ペトロ寺院の中央にまとまって歩いていきました。

 すぐにセキュリティーシステムを通り抜け、そこからたくさん待ちました。午前11時に私たちはスイス衛兵の前を通りました。まるでバッキンガム宮殿の護衛のように赤いジャケットとクマの毛皮の帽子を身につけて、まるで蝋人形のようにじっと動かずにいました。けれど、誰かが写真を撮ろうとすると速攻で止めに来ました。それから階段です。世紀を感じさせる疲れよう! まさかこれを教皇が昇るなどということがありませんように! けれど大理石の中、様々な彩りで描かれた壁を眺め、何世紀もの間にこの同じ場所を多くの人々が歩いてきたことを思うと感慨深いものがありました。上に向かう道は坂が急で、とても長く、とても高く向かっていました。また、とても熱く、サウナを通り抜けてくるかのようにめまいの中で頂上に着きました。ガイドは私たちを休ませてから、輝かしい教皇クレメンス八世ホールに入るようにと招きました。すばらしいフレスコ画と大理石に囲まれた部屋で、一方に教皇が座るための演壇がありました。そして紅いベルベットの材質で美しく飾られた百脚以上の椅子がありました。自分の席に着き、静かに15フィートもあるような脇の扉を見つめて、教皇の入場への期待に胸を膨らませていました。けれど45分もこのような感じでいては座り疲れてきて、皆部屋をうろついて写真を撮り始めました。

 突然座るように言われました。クリュケ師は私たちを紹介するため、グループの前に座っていました。そこで扉が開かれ、教皇フランシスコが二人の司教を脇に従えて部屋に入ると全員が教皇に微笑みかけ、教皇は演壇の自分の席に座りました。クリュケ師はスペイン語で私たちの紹介をし、この素晴らしい機会をいただけて私たち全員がどれほど喜んでいるかを語りました。教皇フランシスコは演壇から降りてクリュケ師に挨拶をし、準備されたスピーチを読み、私たちに感謝し、主の使命への奉仕のうちに行われる私たちの偉大な働きを続け、私たちに先だった死者すべてのために祈ることを意識し、教皇のために祈るようにも駆り立てました。調子が良い時にはいつもするように、テキストを脇に置き、心から語りました。そして、一人ひとり、私たちは前に進み、握手をしました。前もって、教皇はひざまずかれたり指輪にキスをされたり、敬称で呼ばれたりするのを望まないと伝えられていました。彼はただ私たちの目を見つめ、一人ひとりに挨拶をしたいとのことでした。そしてその通りにしてくださいました。兄弟会員の中でほんの数人が、他よりも長めに言葉を交わすことができました。笑いが起こったりしていて、冗談などもあったようです。

 その後で、私たちは皆、町に散らばり、お土産を買ったり、ピザを食べたり、ワインを飲んたりする兄弟もいたようです。それからバスや歩きでコレジオに戻りました。午後530分のネミへの帰りのバスは、この記念すべき日について予想していた以上に不思議なほど静かでした。私は彼に「アイラブユー」と言い、彼は私の目を見つめ、「私のために祈ってください」と言いました。

コミュニケーションディレクター:モデステ・ムニミ

ニュースレター002 6月20日の活動報告


 今日は、太陽が照る美しい日でしたが、やるべきことがたくさんありました。私たちは全体で大教室に集まり、朝の祈りをもって始め、続けて小グループになり、一時間の聖書の分かち合いを行いました。聖書の分かち合いは様々な仕方で行われました。レクツィオ・ディヴィーナの方法論にも多様な様式がありました。そこで聖書が読まれ、兄弟会員たちは単語やフレーズを口にし、全員がそれを声に出して繰り返し、短い沈黙の回想時間の後、一人ひとりがその言葉やパッセージに関連した体験を分かち合います。私たちの分かち合いは、私に言わせてみれば、私たちを本当の意味で共に導き始めるものとなりました。このように分かち合われるときに、聖書がどれほど深く衝撃を与えるものかに気づくことはすばらしいことです。

 短い休憩の後、私たちは再び全体で集まって一時間半過ごしました。秘書は、何の変更もなく承認された先日のセッションの議事録を読み上げました。私たちはクラウドに保管された総会議の文書をどう見つけることができるかを見せてもらいました。そこで私たちは草案作成委員会と提案委員会を選出しました。AFRAMからはケニヤの管区長、アントニー・アミッサー、ASPACからはザビエル・ティルクドゥンバン、EUROPEからはフランツ・ヘルム、PANAMからはアルフォンソ・ホセ・ベルヘルが草案作成委員会に選ばれました。そこで私たちは提案委員会を選びました。AFRAMからはガブリエル・アファグベゲエ、ASPACからはヘンリー・アドラー、EUROPEからはティモシー・レハネ、PANAMからはジョン・ベナス、総本部からはマルク・ウェバーが選ばれました。

 全体での選出に続いて、小グループでミサが行われました。そこで福音(マタイ616節、1618節)に提示されたテーマについての分かち合いが行われました。昼食のための休憩後、私たちはゾーンのグループに分かれ、私たちの多様な諸管区がどのようにして共通の方向性を適応させられるかについて分かち合われました。討議の中で、移民、家族、青年司牧、命の倫理が最も大きな挑戦として取り上げられました。管区の要人のほとんどは、教区のための消極司牧に携わっていて、私たちは彼らの目的に合わせなければなりません。

 短い休憩の後で、私たちは全体に戻り、共通の方向性の適応について議論を続け、意見を交換し合いました。挑戦・困難にも喜びにも大きな類似性があるのを見るのは驚くほど素晴らしいことでした。このセッションを終えて、夕の祈りと夕食に入りました。

モデステ・ムニミ

(文化の夜の様子)


(参加中の兄弟会員たちの声)

総会議のFacebookページのアドレス

https://www.facebook.com/Witnessing-to-the-Word-SVD-18th-General-Chapter-1410060179296645/

ニュースレター002 6月19日の活動報告

ニュースレター002 619日 火曜日

待ち受ける重要な務めに向けて霊的に準備するために、一日静修が行われました。神言会のオンメルボルン師と聖霊会のマリア・クリスティーナシスターが静修の招きをしてくれました。どちらも祈りと瞑想のためにたっぷり時間を取ってくれました。午後遅くに、私たちは小グループに戻り、「命の分かち合い」のセッションを持ち、識別が行われ、ミサが続きました。夕食の後、私たちは「総会ソーシャル」を楽しみました。

二つの静修のテーマである「創立世代から今日への識別」は、神言会員としての私たちの前に横たわっている挑戦を見る霊的準備となりました。オンメルボルン師は、アーノルド・ヤンセン神父の生き方と言葉に関する最初の静修を提供しました。アーノルド神父の三位一体的自己理解と自分の人生の聖霊への聖別奉献が中心テーマで、彼は全神言会会員がこの同じ寛大な精神を持つことを望んでいました。カッシアヌスによれば、これは識別の基本です。アーノルドは自分が神によって呼ばれ、聖霊の導きに従って彼が神のみ旨を行っていることを知っていました。私たちは全員、神のみ旨を識別するために聖霊を必要としているので、祈りこそが識別のために欠かせないものとなります。アーノルドの助言は実に具体的です。「私たちはいつも神にまず訊ねなければならず、そうすると状況を評価しながら、必要な助言を得、選択したことにおいてハッピーでいられます」。「ゴールはいつも最善を尽くせる場所はどこかを見極めながら霊的益を追求することにあります」。「富者からの贈り物を受け付けてもそれに目を奪われてはなりません」。「いつも自分の国のことを大切に評価する一方で、向かった先の現地の国のあり方を尊重し、もし間違った決定を下してしまったら、それを変えなさい」。「宣教は危険に身をさらすことです」。「もし成功しないならそれは神のみ旨ではなかったと受け止め、先に進みなさい」。「すべてのことを試し、善いものをしっかりとつかみなさい」。アーノルドの助言がいつも私たちを促すようにしましょう。

聖霊会のマリア・クリスティーナシスターは言いました。「識別こそが霊的刷新を養う導入です。総会議の旅路は、もし私たちがゲームを始める前にゴールは何かを識別するならば、変化のうちにある喜びへと私たちを導くでしょう。聖なる勤めが私たちの目の前にあります。これは聖霊に導かれたチームでの努力です。そこに込められている前向きの力と後ろ向きの力に気付き、神の助けが私たちの決断を促すようにしましょう。わたしたちはどのように決断しているでしょうか。私たちが選ぶ方法は私たちの価値観や人間関係、霊性を基にしています。正しい決断はこうしたものに依拠しています。今日、私たちは霊性に飢えています。私たちの時代に応えるために、私たちには深い霊性-神が私たちの心の中にいる感覚-が必要です。私たちは様々な仕方で識別します。直感が自分に語っている!はっきり見えるし分かる!私はしたいことをする!と言う人もいるでしょう。私たちは自分の心に耳を傾けなければなりませんが、私たち自身というものには気を付けましょう。神との愛と信頼に満ちた関係は、私たちが自分の霊的状態を調べるプロセスです。どの方法が私たちを神に寄り近づけるでしょうか。私たちは識別のための訓練と実践を必要としています。教皇フランシスコは、霊的識別のために、私たちは、自分たちの行動が真理へと導かれるように聖霊に任せなければならないことを強調しています。質問してください。『今日の世界のために神が望んでいることは何で、人類が望んでいることは何だろうか』と。私たちは、聖書によれば霊から生まれ、霊のうちに生きなければなりません。識別のための態度には、傾聴や祈りが含まれます。そして霊的に『踊ること』は、生きる喜びを与える私たちの願望や待望、炎を抱えて踊ることです。その反対は、生きる気力をすっかり失うことにあります。識別の態度にとって重要な要素は以下の通りです。a: 識別のために充分時間をかけてください。b: 神の手がそこに及んでいるという信頼。c: 自己認識。識別は神の愛の実りです」。

コミュニケーションディレクター:モデステ・ムニミ

2018年6月25日月曜日

ニュースレター002 6月18日の活動報告


ニュースレター002 618日月曜日

 この日は、一日中作業で埋まる最初の日になりました。マタイ31617節と112530節を基にした朝の祈りの後で、ハインツ師はセッションにエンジンをかけるように、神言会と実際の世界の間の歩み寄りに関するプレゼンを行いました。そこには、ここまでの過去六年間に達成できた結果とまだやり残していることも含まれていました。その中心メッセージは「最後の者を先に」据えるというキリスト論的務めでした。このプレゼンへの答えとして、私たちは三つの問いかけに応えるようにと招かれました。1.「このレポート驚いたことは何か」2.「自分に浮かんでくる新しい問いは何か、何が足りなかったか」3.「このメッセージのどの要素が私たちの間でキリストの愛を強め、人類の益となるように主の宣教使命のうちに私たちを前面へと促すか」。

 プレゼンはパワーポイントを用いて行われたものの、「私たちの働き方で変えなければならないところはどこか」「私たちを憐れみと共感のより真正な証し人とするものは何か」「世界にある不正や痛み、苦しみとどう向き合えばよいか」「貧しい人たちや環境への私たちの献身をどう深めるべきか」「他の宗教や世俗の機関と協力して働くにはどうすればいいか」といった質問のような本質的要素で、深めるべき文書全体を読むようにと勧められました。言いかえれば、「神の手にあるより使える道具はどうすればなれるのか」、ということです。クリュケ師は総顧問の中心的な三つの務めを書き出しました。励ますこと、任命すること、財政と建築物の用法を監視することです。そこで、最高のリーダーシップの重要性と、信頼と信用が決定的な重要事項となる人に課せられた責任も強調されました。

 「私たちの生きる時間は短いので、私たちは構造ではなく、人々と共にその時間を費やさなければなりません。世界の貧者たちは教会の未来のメンバーです。私たちの宣教は簡潔です。預言的対話です。これは様々な形を取ります。聖書的な形や、養成の形、教育の形を取ります。キリストの愛がキリストの働きをするようにと私たちを駆り立てます。私たちは刷新をしようとしていますが、それは本当に回心です。古い習慣を変え、古いものを過ぎ去らせることによって私たちの宣教の方向性すら変えるものです。私たちは箱の外側にあるもののことを考えなければなりません。私たちの凝り固まった関わりは躍動的にならなければなりません。私たちは人々と共に居なければならないのです。私たちのリーダーシップには深い回心が求められています。これを支えるためにも私たちの財政は研ぎ澄まされるべきであり、また連帯を礎としている必要があります。

 統計的には、私たちはとてもうまくやっているように聞こえます。私たちはつい最近ドミニコ会の人数を越えて世界で六番目に大きい修道会になりました。私たちは6千人で84か国で働いています。その半分以上はアジア出身者です。私たちの平均年齢は若く、50.15歳です。私たちの高齢会員は全体の15%です。私たちの未来はアフリカとアジアにあります。ブラザーのメンバーの数は減っているけれど、司祭の数は安定しています。けれど私たちの成功は私たちの将来のあり方によって立つべきではありません。私たちは諸文化の交わりを強調してきましたが、それにはまだまだ長い道のりがあります。メンバーのうち90%は責任をもって行動し、8%はもっと責任感を持つべきで、2%は責任感がありません。けれどリーダーシップは彼らに焦点を当てるべきではありません。私たちは彼らのケアをしながら高齢会員に焦点を当てなければなりません。今日生きていて健康的な会員と同じ数の神言会メンバーがこれまで天に召されていきました。そして彼らは私たちの宣教の努力のために祈っています。私たちにはすでにフィンネマン司教やノヴァク司教、ゼラゼク神父や永久礼拝会のマリア・ミカエルシスターのような模範がありますし、ドイツ人およびポーランド人の神言会の殉教者の数は22人もいます。けれどまだまだ必要です。

 私たちの前にある大きな務めには人事、財政、組織基盤といったものがあります。私たちは東ヨーロッパやアフリカ、ラテンアメリカやアジアに広がり続け、特に教育の領域や、難民問題と言ったより特化された奉仕に努めていますが、ヨーロッパと北米では数が減っています。

 私たちの持っているお金の50%は養成が使っています。けれど私たちは養成センターでもっと多くの投資をしなければなりません。彼らこそが私たちの未来だからです。全管区は自立会計を成り立たせなければならず、箱の外側について考えこれを成し遂げなければなりません。私たちは信者さんや信徒の宣教における仲間とのつながりを強調しなければならず、そこで宣教精神を育てる方法として彼らに所有権の感覚を提供しなければなりません。」

 総会長のプレゼンに続いて、私たちは小さなグループに分かれて、自分たちが聞いたことを深め、消化する時間としました。そしてハインツ師によって挙げられた三つの質問に答え、全体で発表するためにグループ報告を提出しました。全体発表で、私たちは予定を確認するために票を取りました。そしてハインツ師は小グループで作成した質問に対する答えを提供しました。質問には次のようなものがありました。「時代遅れの構造に対して私たちは何をしていくのか」「兄弟会員たちを、特にリーダーシップを取れるようにと促すにはどうすればよいか」「信徒の兄弟姉妹に力を注ぐにはどうすればいいのか」「召命を推進するにはどうすればよいのか」「私たち自身を刷新するにはどうすればよいのか」「信徒の仲間たちを共通のプログラムに巻き込むにはどうすればよいのか」「引退会員とどう接し、どうすればいいのか」「貧しい人々を最優先にする選択はどういうものなのか」「私たちの共同体を強めるにはどうすればよいのか」「運営と養成の挑戦はどのようなものか」「兄弟会員の間にあるネガティブな雰囲気をどうすればいいか」「私たちのリーダーシップのあり方はどうあるべきか」。

 クリュケ師はそこでいくつか、総会長として六年間の職務を果たしてみてきた自分の気持ちと経験を語りました。彼は従順の倫理以上に責任の「倫理」を強調しました。これは神の働きのために責任ある生き方をするのに重要です。「私たちは自分の資財を貧しい人々のために分かち合うべきで、資材豊かであるべきで、必要とされている所に人々を配置し、可能な時にその場所を他の人に引き渡す必要があります。私たちはより多くのことを引き受け、とても良くできあがった組織や小教区といったものを手放すことを学ばなければなりません。家族や青年に焦点を当てるという正しい方向性に動いていかなければなりません。豊かな管区は貧しい管区と分かち合います。リーダーシップはますますチームで分かち合われるべきで、助言を仰ぐことや、連帯を含まなければなりません。けれど私たちは自分たちの近くにいる預言者にも気づき、彼らに耳を傾けなければなりません。」

 クリュケ師は顧問メンバーとリーダーシップチーム全員に心からの感謝をしました。彼は六年を振り返って多くの良いことが行われ、多くの大事な決断がなされたことを思い返しました。「未来のリーダーたちは全兄弟を知るようにならねばならず、その結果、空港で生活し、多くのベッドで寝るのに慣れなければなりません。世界中で神言会員たちは世界をより良いものにするものすごい働きをしています」。最後に、クリュケ師は私たち全員に感謝し、特に変化に対する不忍耐という失敗に落ちたことのゆるしを求めました。

 この日の最後の時間は、総会議の作業文書の進捗状況が紹介され、それについての票が採られ、受理されました。そのプロセスには、全管区・準管区・宣教地区や、いくつかの管区顧問、幹部会、委員会の仕事からのアイデアも含まれました。総会議が進むにつれ出てくる新しいアイデアが出ればどんなものでも紹介され、加えられていく予定です。ゾーンのグループでは草案作成委員会と提案委員会のための候補者が選ばれました。
 
コミュニケーションディレクター:モデステ・ムニミ

クリュケ師へのインタビュー

2018年6月24日日曜日

ニュースレター002 教皇謁見レポート


総会議の参加者、教皇フランシスコに会い、耳を傾ける。

教皇との特別な謁見は、いつも神言会の総会議で特筆すべき瞬間でした。6月17日から7月14日に及ぶ第十八回総会議に関しては、このイベントは2018年6月22日、バチカンの教皇クレメンス八世ホールで行われました。

13時に、教皇フランシスコ教皇に会い、耳を傾けるために、総会議が行われているネミのアド・ジェンテスセンターからローマへ旅をした神言会の司祭、ブラザー、協力信徒合わせて155人の前に姿を現しました。金曜日の数多くの謁見をこなすハードスケジュールにも関わらず、教皇フランシスコは、会うのを楽しみにしていた神言会の仲間たちと会うために、輝かしい笑顔でホールに入ってきました。

総会長のハインツ・クリュケ神父の短いあいさつの後で、教皇フランシスコは、総会議のテーマである「キリストの愛が私たちを駆り立てる(IIコリント5章14節)、み言葉に根ざし、その使命に献身して」にふさわしいトークをスペイン語でしてくださいました。総会議のテーマのために選ばれたパウロ書簡のフレーズの宣教的本性について神言会メンバーに思い起こさせるのに加えて、教皇フランシスコはよくまとまった三つのポイントを指摘しながら勧告をして下さいました。

神の聖なる摂理への信頼
 まず、教皇フランシスコは、日々の祈りの行動と秘跡の祝祭を通して、神の摂理への信頼を刷新するようにと、神言会メンバーに呼び掛けました。さらに、この信頼は、聖霊の力に信頼を置きながら、危険に飛び込む勇気に反映されます。

神のみ言葉を告げよ
 二つ目に、教皇は神言会に、どんな場所であっても、どんな時間でも、どんな文化であっても、すべての人に神の言葉を告げるカリスマのことを思い起こさせました。神言会の宣教師は、キリストのことをまだ知らない人々にみ言葉を告げ知らせる挑戦と面するためにいつでも使えるように整えられた方法をいつでも用いるべきでだと教皇は言いました。

宣教中の兄弟共同体を形成すること
 最後に、教皇フランシスコは神言会に対して、その宣教カリスマを兄弟愛のうちに一つになる兄弟共同体を体験するようにと勧告しました。多様性や諸文化の交わる性質にも拘らずこの方法で一緒に歩むための神言会の能力は、今日の世界における福音宣教にとってものすごく大きな価値です。教皇は、共同体で愛と一致を達成して初めて神言会は他者と共に居る冒険をしたり、平和と正義に関連した多くの事柄をカバーするために働くことができるのだと強調しました。

根と墓地
 準備されたテキストから話すだけでなく、教皇フランシスコは、この場を利用して何度も自発的に語り、神言会の宣教師たちがケアと愛の具体的な行為のうちにその根幹に立ち戻り、その宣教生活を果たしてアフリカやアジア、アマゾンをはじめ全世界の遠い土地に埋葬されている神言会員たちを思い起こすようにと勧告しました。



 教皇の声と仕草のうちに示された情熱が、ホールにいた神言会員たちに決定的に届きました。ベルン・ルッフィング修道士は、ドイツ管区の総会議代議員ですが、こうコメントしました。「教皇フランシスコの微笑みには、小聖堂に入って来た時に本当に感動させられました。すぐに私たち全員とつながりを持ったのです。たぶん、台本通りにしなかった時に、特別な瞬間もあったと思います。そして本当に心から語ってくださっていることを感じました。教皇が私の手を差し伸べて下さった時、彼から来る特別なエネルギーを感じました。教皇との謁見に参加する機会は、本当に特別な恵みでした。

 この集いにおいて、教皇フランシスコに示された接し方には大きな価値がありました。通訳なしの完全にスペイン語で行われたイベントだったために、全員が教皇のお話しの内容を理解できたという訳ではありませんでした。総会議の一員となるように招かれた神言会の仲間の信徒であるレン・ウハルさんにとっては、それでも特別な体験でした。こう言いました。「あれは本当に祝福でした。スペイン語で語っている間、しゃべっていることはほとんど理解しなかったのですが、私たちの間で最も小さな者への奉仕を代弁する世界的リーダーのいるところにいるということは、キリストの宣教する弟子であるようにと自己をささげ直し、私の人生の中でイエスがよこしてくださった人々に奉仕するようにと私を促したのです。

 謁見の最後に、グループメンバー一人ひとりが教皇フランシスコと握手する機会を得ました。また、教皇を中心に座らせた全体写真も撮りました。

 教皇フランシスコとの謁見は時間的には長くありませんでしたが、教皇によって告げられた勧告の言葉は、きっと内省のためにも行動のためにも多くを提供することでしょう。神言会はまさに将来にとっての宣教の優先順位を確立しているのですから。
(アントニ・レ・ドゥック、SVD


2018年6月21日木曜日

ニュース速報


教皇との個別謁見について

 2018年6月22日に、神言会総会長のハインツ・クリュケ師を筆頭に、第18回総会議の代議員たちとスタッフたちは、正語の12時に教皇フランシスコとの個別謁見の場を持つ予定である。
 
 第18回総会議は6月17日に、ネミにあるアド・ジェンテスセンターの洗礼者聖ヨハネ聖堂での開会ミサをもって始められた。総会議のテーマは「キリストの愛が私たちを駆り立てる(IIコリント5章14節)-みことばに根ざし、その使命に献身して」である。

 教皇はご大陸の46か国からの151人の会員と会見する予定である。内訳は、58の管区・準管区・宣教地区の上長と代議員、総顧問メンバー、本部の事務員、聖霊会の代表シスター二人、四つのゾーン(AFRAMASPACEUROPAPANAM)からの四人の仲間の信徒たち、神言会の監察官、そして残りのスタッフである。前総会長のアントニオ・ペルニア師(2000年-2012年)や、様々な宣教の現場で働いているアルゼンチン出身の神言会員数人も臨席する予定である。

 教皇フランシスコがまだブエノスアイレスの大司教だった時、神言会員、特にその大司教区で働いていた会員たちとのコンタクトもあった。この個別謁見は、来る6年間のために神言会の方向性を見出そうとしている代議員たちにとって特別な時となる。この総会議の中で、新しいリーダーシップチーム、つまり新しい総会長と総顧問も選出される予定である。

コミュニケーション総コーディネーター
モデステ・ムニミ、SVD


2018年6月19日火曜日

ニュースレター001 第18回総会議開始




18回総会議開始

 初日は、受付区域から聖堂の入り口までの短い行列で始まりました。そこで総会長のハインツ・クリュケ師からの祝福と公式開会宣言がなされました。聖体祭儀と共に総会議に入っていくことを象徴的に表すために、総会長が教会に入れるために扉を叩くという仕草がありました。

聖堂内は様々な文化によるもので美しく整えられていました。神言会の働く五つの大陸を表す五つの光が灯されていました。み言葉の典礼は、とても魅力的に装飾された場所から行われました。総会議の代表者たちの中でも一番若い会員たちが朗読をし、それぞれのゾーンの臨席を示す鐘が鳴らされました。AFRAMゾーンは福音書を玉座に据える行列をもって祝祭を生き生きと盛り上げました。

福音朗読の後で、クリュケ師は総会議のテーマをまとめました。「キリストの愛が私たちを駆り立てることは何か」と「神がどこに向かって私たちを呼んでいるか」、「どこに向かって私たちは進まなければならないのか」、「何をしなければならないのか」といった問いが、私たちが応えていく役割を託された問いになります。

聖体祭儀は、私たちの会の国際性から、参列者全員の生き生きとした参加、特に歌声をもって、「出会いを祝う」といったものになりました。

聖体祭儀の後、祝祭はネミの家の入口付近でのささやかな乾杯に続きました。その後自由時間があってから、午後5時に大ホールに集まり、総会議を始めるにあたって必要な導入のセッションが行われました。

夕食後、ブラジルとスイスの試合を見るために集まった兄弟たちもいました。1対1の引き分け。

コミュニケーションディレクター:モデステ・ムニミ

ニュースレター001 巻頭言


愛する兄弟会員の皆さん、シスター方、宣教における仲間の皆さん、

18回総会議の開会ミサと共に617日の主日に始まるこのニュースレターにようこそ。このニュースのツールを通して、皆さんが神言会の生命におけるこの重要なイベントの一部となって頂けたら、と思います。

三位一体の神の前に、全世界で宣教に携わっている兄弟たちとその共働者たちの喜び、希望、痛みを携えて、私たちは感謝を込めて集まりました。総会議のテーマについて兄弟会員に質問した際、大半が、私たちのインスピレーションと献身の泉として神のみ言葉に戻ることができるような霊的刷新の必要性を感じていました。どのような識別も刷新も、ここから始まらなければなりません。そしてそれが宣教や使命のよりほんものの動機である、私たちを駆り立てるキリストの愛に立ち返らせなければなりません。

どうぞ、皆さんの祈りの中で、ローマ郊外にあるネミのアド・ジェンテス霊操センターに集まる151人の兄弟会員と聖霊会の姉妹、信徒共働者とともに歩んでください。また、皆さんの祈りの中で、関心をもって、総会議の展開にも同伴してください。

聖アーノルド・ヤンセンはこのように書いたことがあります。「目標は、神言会が全体においてもそのメンバーたちも、忠実に神のみ旨を果たすようにと努力することにあります。このためには、まず、そのメンバーがより聖なる者となっていくことが求められます。また第二には、神言会が神の御手の中でより能力が高くより有益な道具となって行くために努力することが求められます」(『アルゼンチンとブラジルの司祭、修道者へ』1901123日、Arnold Janssen Reader, 2017, sec 321)

キリストの愛が私たち全員を駆り立て、ますますみことばに根差し、その使命に献身し続けられるようにして下さいますように。

コミュニケーションディレクター:モデステ・ムニミ

開会ミサ説教(2018年6月17日)



18回総会議開会ミサ
導入
ここ数年様々な仕方で分かち合ってきたと思いますが、最初の視察直後から、私の任期が終わるまで、ずっと私の脳裏にあり、この期間何度も確認してきたことがあります。神言修道会のような修道会が無かったら世界は今よりずっと貧しくなっていただろう、ということです。間違いなく、私たちが働いている国すべてにおいてその通りです。今日、私たちは神言修道会の約六千人のメンバーと、世界中の宣教における多くの信徒共働者の代表として、第十八回総会議を始めるために集まりました。三位一体の神に向かって、その名においてこの世界を豊かにするために貢献できたことすべてについて、感謝したいと思います。同時に、そのみことばに、より強く根差し、キリストの愛が私たちを駆り立てるがままにその使命に献身することができる場所はどこかを新たに自問し続けましょう。私たちの開会の聖体祭儀を三位一体の神の名においてはじめましょう。父と子と聖霊の御名によって…
《あらゆる善の与え主である神》
人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。

(ミカ書68節)





愛する兄弟姉妹の皆さん、

1. 今日、第十八回総会議の開催にあたり、私たちは感謝を込めて集まり、三位一体の神の前に、全世界で宣教に携わっている兄弟たちとその共働者たちの喜び、希望、痛みを携えています。総会議のテーマについて兄弟会員に質問した際、大半が、私たちのインスピレーションと献身の泉として神のみ言葉に戻ることができるような霊的刷新の必要性を感じていました。どのような識別も刷新も、ここから始まらなければなりません。そしてそれが宣教や使命の、より本物の動機である、私たちを駆り立てるキリストの愛に立ち返らせなければなりません。

2. 全世界の神言会の宣教の仲間たちと共に、基本的な二つの問いかけをするように私たちは招かれています。「神が私たちにしてほしいと望んでいることは何だろうか」と「私たちが神に求めることができることは何だろうか」です。

2.1 最初の問い:「神が私たちにしてほしいと望んでいることは何だろうか」
 「この識別と刷新のプロセスにおいて私たちにしてほしいと神が望んでいることは何か」を分かち合うように呼ばれているという使命は、神の使命であることをいつも心に思い返しながら、その答えを探し求めるにあたり、私たちの創立者と教皇フランシスコ、そして今日の聖書朗読箇所に助けを求めることができるでしょう。

私たちの創立者の生涯は、このたゆまぬ識別と刷新のプロセスの重要性を証ししています。アーノルド・ヤンセンの言葉を思い起こしましょう。「神の聖なるみ旨がいつでもなされますように。もし私たちの働きが神のわざでないなら、失敗した方がいいし、そうなら少しでも早く失敗した方がいいです」。『信仰の歩み』の著書であるヨゼフ・アルト神父にこう質問したことがあります。「ほぼ千ページにもわたる創立者の伝記を書いた後で、ヤンセン神父の生き方について、一番印象的だったところはどこですか」。アルト神父は、一番感動的な所は、「アーノルド・ヤンセンの生き方の素朴さ」と、「神への深い信仰」で、それ以外は二義的だと答えて下さいました。別の機会に、アルト神父はもう一つの点を加えました。それは「継続力」です。素朴さ、深い信仰、継続力、これが、私たちに神が望んでいることについての問いに対する創立者の答えだと言えるのではないでしょうか。新たにされた修道会の重要な特徴となります。

教皇フランシスコはこう書いています。「君も自分のいのちの全体性を、一つの使命として感じ取るべきです。祈りの中で神さまに耳を傾け、彼が君にもたらしてくれるしるしを認識するようにしてごらんなさい。君自信の使命に神が占める場所を識別するために、聖霊に向かって、君が生きているあらゆる瞬間や君が決断しなければならない一つ一つの選択において、イエスさまが君に期待していることは何かをいつも問い続けなさい…」(使徒的勧告『Gaudete et exultateGE:喜びなさい、大いに喜びなさい)』23)。識別と刷新のプロセスというものが、かなり強い要求に満ちたものになるであろうことは分かっています。それでも、修道者・宣教者としての私たちにとって、また他の人たちにとっても、私たちの生活の全場面、計画、行動において神のみ旨をたゆまず識別する以外ありえないのです。教皇フランシスコは、教会にとってどのような刷新をする場合にも本質的な三つの柱を強調しており、それはどの修道会にも同様に重要なものです。一つ目:イエス・福音を今一度中心に据えるべきである。二つ目:ほんものの回心。歩みにおいて方向性と導きを求めてもう一度主に目を注ぎながら軌道修正をすべきである。三つ目:この主との新たにされた出会いは主の名における宣教活動における生活の仕方、計画の立て方、参与の仕方にインパクトをもたらすべきである。教皇フランシスコは私たちに次のことを思い起こすように訴えかけます。「『祈りに満ちた識別』には、耳を傾けるという心構えから始めることが強く求められています。主に耳を傾け、他の人々に耳を傾け、いつも私たちに新しい方法で挑戦して来る現実そのものに耳を傾ける心構えです。…そのようにして、生活の安定を崩すけれど、より善い生き方に導く呼びかけを受け入れる心構えが本当にできていると言えるのです」(GE172)。

私たちの生き方の中心で神のみことばと共に生き、みことばに根差していると、みことばの分かち合いをするたびに、「神が私たちに何をしてほしいと望んでいるのか」という問いに対する答えをより多く見出すことになります。今日の朗読箇所は、総会議のテーマにばっちりはまっています。それぞれに刷新のプロセスという文脈における具体的なメッセージがあります。第一朗読はエゼキエルの預言(172224節)ですが、自然を例に出しています。私たちではなく主が、存在するあらゆるものの主人であることを、私たちに思い起こさせます。主があらゆる出来事をコントロールしているのだ。もし変化が必要ならば、主がものごとをひっくり返すのだ。死んでいる者に命を返すことができるのだ、と。詩篇作者(92篇)は、主に感謝することこそ善いことであると言い、生において善いものを支えておられるのは主であり、主が、善くないものが死滅することを容認するのだということを思い起こさせます。パウロはそのコリントの信徒への第二の手紙(5610節)の中で、主との刷新の歩みにおいて必要な本質的な要素をいくつか分かち合っています。神が私たちに求めていることは、いつも勇敢であること、見せかけではなく信仰のために歩むこと、主を喜ばせようと意識を高めることだ、と。マルコは成長する種の譬え話(42634節)の中で、神の国がどのように発展していくのかの神秘的な秘訣を再発見してほしいと求めています。蒔かれる種と同様に、神の言葉はたゆまず告げ知らせられなければなりません。そうして私たちが知らなくても成長し、実を結ぶのです。からしの種と同様に、私たちの貢献は小さく見えても、神は小さい者が何か大きく命をもたらすものに変われるようにして下さるのです。

 どのような識別や刷新においても、私たちの霊的生活と祈りの生活はいつも、私たちの外壁や境界線の外側にある世界や生活からの挑戦を受けているはずだということを意識せずにはいられなくなる可能性があります。これこそが、三位一体の神のより近くで成長し、同時に人々や世界のより近くで成長するようにとの呼びかけなのです。他者のない局面は、霊性の狭量な展望へと私たちを導きます(OC27)。歩みにおいて、回心の必要性を見出すのです。

 私たちの「霊性」において、新しく、より聖書的な神の似姿への回心の必要性があると言えます。「共同体・共同性」において回心は、いつも自分だけでやりたがる代わりに、一緒に所有し行動するために必要です。「リーダーシップ」には責任を負い、奉仕し、信頼するための回心が求められています。「財政」に関して言えば、透明性、連帯性、専門化への回心の必要性があります。「養成」の文脈においては、初期養成においても生涯養成においても回心は、他の色々なことがある中でも、習慣に変化をもたらし、新しい形で考えることを学ぶという挑戦と向き合っています。

 教皇フランシスコは、現状への満悦を避けなければならないと言い、こう続けています。「何かを変化させようとする意味などないとか、この状況を前にして何もできないとか、いつもこうだったけれど生きて来られた、と語る声が聞こえます。そう慣れ親しむことのせいで、私たちは悪に立ち向かうことはなくなり、物事が「今ある状態であるように」とか他の人がそうあるようにと決めてしまった通りであるようにと容認することになります。けれど、主を招き、私たちを目覚めさせ、私たちの眠気を覚ますために私たちを揺さぶり、慣れ親しんだことから私たちを解き放つために来ていただけるようにしましょう。習慣に立ち向かい、両目両耳をよく開き、何よりも心を開いて、私たちの周りで生じることや復活された主の生きた言葉、効力のある言葉の叫びによって居心地の良さから動かされるように身を任せましょう」(GE137)。

2.2. 「神が私たちにしてほしいと望んでいることは何だろうか」と自問した後で、「私たちが神に求めることができることは何だろうか」という第二の問いができます。私たちの現実の世界や教会、神言会を見ると、何が必要なのでしょうか。ここ数年、世界中の共同体でこの問いをして、多くの答えを頂きました。
・南スーダン:戦争の年代を経て、人々は癒しと和解を求めていた。
・ニカラグア、ブラジル、コロンビア、ベネズエラ:人々は平和と暴力の終結のために祈っていた。
・フィリピン、インドネシア、中国、ベトナム:人々は本物で正直な指導者を求めていた。
・世界中の人身売買の犠牲者、エイズを抱えて生きている人々は、正義、公平、共感を切望している。
・スロヴァキア、ウクライナ、ラトニア、アルバニア、クロアチア:社会主義の歳月を経て、生きる意味を求めようともしない人が増えた。
・ハンガリー:ミサの最中に一人の青年女性が立ち上がって、自分たちの家族の中に、より多くの愛が必要で、信頼することを学び直さなければならないと、不特定の参列者に訴えかけた。
・ドイツやオーストリア、オランダ、イギリス、アイルランドのような西欧の国々:多くの人が本物の友情や、忠誠、関係における継続力を失っている。信仰を学び直したり、希望を持ち直したり、よりしっかりした連帯を実践し直したりすることは祝福だと言う人もいる。
・インド:ある信徒指導者がミサの間に言った。「そちらの宣教師たちをここに送ってくださってありがとうございます。私たちと共に居てくれるようになってから、飲酒も、ケンカも、殺し合いもやめました。和解し合いゆるし合うことを学びました。子どもたちは学校に行くようになりました。飲み水も手に入るようになり、健康のためのサービスも身近になりました。すべてがより良い方向に変わりました。信じられないような、評価しきれないほどのサービスが提供されています」。
・環境を見てみると、世界中で働く多くの人たちにとって、神の被造物に対する配慮と憂慮が緊急の必要性となっている。

いつくしみの特別聖年の間、教皇フランシスコは回心と刷新のプロセスにおいていつくしみ深く憐れみ深い神に、ゆるしと互いにゆるし合う恵みを求めることができる、と強調していました。

 第18回総会の初めにあたって、私たちも自問できるでしょう。「個人として、共同体として、修道会として、私たちのため、全世界の80か国以上で私たちの宣教において共に歩んでいる人々すべてのために、神に何を求めますか」と。

3. 世界中の人々の回答をよく見ると、神に求めるものとして、平和、正義、真理、真正性、献身、和解、ゆるし、いつくしみ、共感、癒し、意義、愛、友情、素朴さ、忠実さ、継続力、連帯、希望、人の始まり、人の命、といった多くのものの重要性に気付くことができます。私たちはそうした要素なしで生き、働くことができません。また、そうした要素には値段がつけられず、買うことのできるものはない、ということに気付けます。生きていて一番大切なものには値段がなく、買うことができないのです。間違いなく、私たちの方でしなければならないこともあります。けれども、最期の時には、神にこれらを求める人々に与えられた本物の贈り物になるのです。だから私たちは、宣教者として、贈り物や善いものすべての与え主である神にまつわる話を分かち合い続け、語り続けるのです。ですから、宣教事業は、刷新されたとき、愛に駆り立てられ、みことばに根ざし、その使命に捧げられたものであることは重要であるし、重要であり続けるものなのです。

4. 終りに、創立者の言葉は私たちに、神言会の目標を思い起こさせてくれます。創立者は言います。「目標は、神言会が全体においてもそのメンバーたちも、忠実に神のみ旨を果たすようにと努力することにあります。このためには、まず、そのメンバーがより聖なるものとなっていくことが求められます。また第二には、神言会が神の御手の中で、より能力が高くより有益な道具となっていくために努力することが求められます。…このようにして、三位一体への賛美をますます推進することができるでしょう。そして特に聖霊への賛美をして、地において神のみ言葉を広め、み言葉と共に神の愛、キリスト者の徳である愛、聖なるみ国の恵みの大いなる宝を広めるのです」(『アルゼンチンとブラジルの司祭、修道者へ』1901123日、Arnold Janssen Reader, 2017, sec 321)。これも、私たちが見越した刷新の目標です。

 神言会の名において、ここにおられる方も、インターネットでこの開会式を見ておられる方も、愛する兄弟会員の皆さん、シスター方、宣教における信徒共働者の皆さん、恩人、協力者の皆さんに、そこにいてくださること、そこで行ってくださっていることに、感謝したいと思います。特に三位一体の神に、総会議の間、それから今後の未来において、その現存と導きを求めましょう。教皇フランシスコの言葉に合わせて祈りましょう。「聖霊が私たちに前進していくべきだと訴える時に、揺るがずにいられる恵みを主に願いましょう」(GE 139)

(第十一代神言会修道会総長 ハインツ・クリュケ)