2018年6月30日土曜日

6月22日 教皇演説 全文

神言修道会総会議代議員との謁見における 
教皇フランシスコの演説
2018年6月22日、金曜日
クレメンティナ・ホール


兄弟姉妹の皆さん、

 最初に、管区長さんにあいさつし、神言会全体の名において私に向けて下さった言葉に感謝させてください。皆さん、ようこそいらっしゃいました。総会議を機に、この出会いの場で皆さんと共に居られる喜びを表明したいと思います。総会議はいつも、教会や世界全体にとってと同様、神言会一家全体にとって恵みの時を成します。そしてキリストに忠実に従うということが扱われているのですから、聖アーノルド・ヤンセンが好んで「貧しい人々の父」と呼んだ聖霊の臨席を願いましょう。
 皆さんの作業を導くテーマには、明らかにパウロ的で宣教的な味付けがされています。《「キリストの愛が私たちを駆り立てる」(IIコリント5章14節):み言葉に根ざし、その使命に献身して》。私たちを個人的刷新、共同体的刷新に促し、出かけて行き福音を告げ知らせる献身を強めるのは、キリストの愛です。このためには、根源を見直すこと、どこに根ざしているかを見ること、皆さんの共同体や、皆さんがいる世界の端々で実現している事業に命を与えている樹液は何なのかを見る必要性があるでしょう。この源泉への眼差しから、三つの言葉:「信頼」、「宣言」、「兄弟」という言葉を巡って回想したいと思います。
 まずは、「信頼」。神とその聖なる摂理に対する信頼です。というのも、自分を捨てて神の御手の中に委ねきることができるというのは、私たちのキリスト者としての生活、奉献生活者としての生活の中での本質だからです。私たちの、神への信頼、その摂理的な愛や慈しみに満ちた愛への信頼はどの程度にまで到達しているでしょうか。私たちは、自分たちの宣教において、身を危険にさらし、勇気を持ち、決断力を持って臨む心構えができているでしょうか。聖アーノルドは、宣教師の生活には神への勇気と信頼を失っていい理由などありえない、と確信していました。神の愛を体験したことのある私たちの間で、恐れやひきこもりを認めることが無いようにしましょう。また、私たちが聖霊の働きにブレーキをかけたり障害を置いたりする存在にならないようにしましょう。与えられた賜物、「聖なる助けを示す数多くの試練」に意識を向けながら、皆さんが主への信頼を刷新し、恐れなく出かけて行き、多くの人々を幸せにする福音の喜びの証しをするようにと励まします。日々祈りと秘跡の中で主との出会いのうちに新たにされる、この主への信頼が、皆さんの活動と計画全てのうちに、神のみ旨を行うことを模索しつつ、自分自身の生活を見直すために、識別に対して開かれた態度でいられるためにも役立ちますように。
 二つ目の言葉は、「宣言」。皆さんのカリスマにおいて、神のみ言葉を宣べ伝えることは、本質です。皆さんはこれを、いつでもどこでも、すべての人に、あらゆる方法、可能性を駆使して、自分たちの間でも教会とも一致した弟子であり宣教者である者から成る共同体を作りながら行います。全神言会員の心の中では、聖パウロの「福音を宣べ伝えないなら私は呪われよ(不幸なのです)!」(Iコリント9章16節)という言葉を消すことのない炎のように燃えていなければなりません。それは、皆さんに先立った多くの宣教師男女が意識していたことでした。それは、皆さんに託されたトーチであり、今日皆さんの目の前にある挑戦でもあります。皆さんの創立者は、皆さんのことをアド・ジェンテス、諸国民のための宣教師であると考えました。「全世界に行って福音を宣べ伝えよ」(マルコ16章15節)。宣教の派遣命令は、境界線も文化の壁も知りません。なぜなら全世界が宣教地だからです。
これは少し無秩序かもしれませんが、大切なのは行くことです。その後で、もっと後になって、それが整えられる(秩序となる)のです。けれど、宣教者の生活はいつでも無秩序です。命令(秩序)に安定をもたらすものとしては、祈りがあるだけです。そして祈りつつ、前進するのです。
愛する兄弟の皆さん、もし皆さんが神のみことばに錨を降ろし、みことばに根を張り、自分たちの生活の基礎としてみ言葉を受け止め、み言葉が皆さんの心の中で燃えるように(ルカ24章32節参照)と身を委ねるなら、このみ言葉が皆さんを変えていき、皆さん一人ひとりを本物の宣教師にしてゆきます。神のみ言葉によって生き、みことばによって聖なるものと変えてもらえるように委ねなさい。そうすれば、皆さんはみ言葉のために生きるようになります。
 三つめに提示する言葉は、「兄弟」。私たちは一人ぼっちではありません。私たちは教会です。私たちは民です。私たちには人生の道、私たち独自の召命の道を、横で共に巡りゆく兄弟姉妹がいるのです。私たちを魅了し、私たちをぎゅっと集める主によって一つになった、自分たちが人であることを受け止め、自分たち自身であることを捨てない兄弟から成る共同体です。皆さんは神から、忠実であり続け、違いを見せる力と喜びを受け、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と私たちに指し示す道を続けます。一致して歩み、そのメンバーたちが愛し合う共同体を目にするのは素敵なことです。これは一番の福音宣教です。ケンカをしたとしても、言い合いをしたとしてもです。というのも、互いに愛し合う良い家族にはどこでも、ケンカも言い合いもあるからです。けれど、その後に調和があり、平和があるのです。世界も教会も、多様性や諸文化の交じった状態にもかかわらず、この兄弟愛に触れる必要があります。それは皆さんが手にしている豊かさの一つです。司祭も修道士も信徒も一つの家族のメンバーだと感じ、信仰と同じカリスマを分かち合い、それを生き、誰もが他の人々への奉仕をし、誰も他の人の上位に立たない共同体です。
 このように一致して、皆さんは、社会から疎外され、外にいる他の兄弟たちと出会うために出かけて行く困難にも務めにも向き合うことができるでしょう。私たちは除外の文化、使い捨ての文化の中で生きています。そうした除外された兄弟たち、運命に見放された兄弟たち、ひとの利己的な関心のために踏みにじられた兄弟たちなどに出会いに行くこと。彼らも、私たちの助けを必要とし、彼らとの出会いのために出かけて行く神の現存を体験する必要を感じている、私たちの兄弟なのです。そこでも、皆さんはパン(食糧)と正義を求める人々の叫びに耳を傾け、答えながら、より尊厳に満ちた生活を求める人々に平和と統合的なプロモーションをもたらしながら、現代の数多くの男性、女性の悲しみと苦しみに慰めをもたらし、希望を持つ意義を提供しながら、いつくしみのわざを通して真福八端の精神を現実のものとするために派遣されているのです。これが、兄弟(修道者)であり宣教者である皆さんの歩みを導く方位磁針でありますように。
 二つのことがあります。一つは起源です。起源というのは、ただの歴史でも、ただの物事でも、抽象的な霊性でもありません。起源というのは根であり、根が命をもたらせるようになるには、根に手間をかけ、水をやらなければなりません。根を見つめ、求めなければなりません。皆さんに起源に根ざしているようにと言いましたが、つまり、皆さんの起源が、皆さんを育てる根であるように、ということです。二つ目のことは、もの悲しい考えと捉えないでいただきたいのですが、墓所のことを考えてください。遠いところにある墓所、アジアの、アフリカの、アマゾンの奥地にある墓所…。皆さんのメンバーのどれほどがそこにいて、その墓石に名が読まれているでしょう。若くして亡くなった会員がいます。命を注ぎ込んだからです。起源…。墓所も、皆さんにとっての起源です。神さまが皆さんを祝福してくださいますように。私のために祈ってください。そして、起源と墓所、忘れないでください。ありがとう。

(教皇フランシスコ)

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