2018年6月19日火曜日

開会ミサ説教(2018年6月17日)



18回総会議開会ミサ
導入
ここ数年様々な仕方で分かち合ってきたと思いますが、最初の視察直後から、私の任期が終わるまで、ずっと私の脳裏にあり、この期間何度も確認してきたことがあります。神言修道会のような修道会が無かったら世界は今よりずっと貧しくなっていただろう、ということです。間違いなく、私たちが働いている国すべてにおいてその通りです。今日、私たちは神言修道会の約六千人のメンバーと、世界中の宣教における多くの信徒共働者の代表として、第十八回総会議を始めるために集まりました。三位一体の神に向かって、その名においてこの世界を豊かにするために貢献できたことすべてについて、感謝したいと思います。同時に、そのみことばに、より強く根差し、キリストの愛が私たちを駆り立てるがままにその使命に献身することができる場所はどこかを新たに自問し続けましょう。私たちの開会の聖体祭儀を三位一体の神の名においてはじめましょう。父と子と聖霊の御名によって…
《あらゆる善の与え主である神》
人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。

(ミカ書68節)





愛する兄弟姉妹の皆さん、

1. 今日、第十八回総会議の開催にあたり、私たちは感謝を込めて集まり、三位一体の神の前に、全世界で宣教に携わっている兄弟たちとその共働者たちの喜び、希望、痛みを携えています。総会議のテーマについて兄弟会員に質問した際、大半が、私たちのインスピレーションと献身の泉として神のみ言葉に戻ることができるような霊的刷新の必要性を感じていました。どのような識別も刷新も、ここから始まらなければなりません。そしてそれが宣教や使命の、より本物の動機である、私たちを駆り立てるキリストの愛に立ち返らせなければなりません。

2. 全世界の神言会の宣教の仲間たちと共に、基本的な二つの問いかけをするように私たちは招かれています。「神が私たちにしてほしいと望んでいることは何だろうか」と「私たちが神に求めることができることは何だろうか」です。

2.1 最初の問い:「神が私たちにしてほしいと望んでいることは何だろうか」
 「この識別と刷新のプロセスにおいて私たちにしてほしいと神が望んでいることは何か」を分かち合うように呼ばれているという使命は、神の使命であることをいつも心に思い返しながら、その答えを探し求めるにあたり、私たちの創立者と教皇フランシスコ、そして今日の聖書朗読箇所に助けを求めることができるでしょう。

私たちの創立者の生涯は、このたゆまぬ識別と刷新のプロセスの重要性を証ししています。アーノルド・ヤンセンの言葉を思い起こしましょう。「神の聖なるみ旨がいつでもなされますように。もし私たちの働きが神のわざでないなら、失敗した方がいいし、そうなら少しでも早く失敗した方がいいです」。『信仰の歩み』の著書であるヨゼフ・アルト神父にこう質問したことがあります。「ほぼ千ページにもわたる創立者の伝記を書いた後で、ヤンセン神父の生き方について、一番印象的だったところはどこですか」。アルト神父は、一番感動的な所は、「アーノルド・ヤンセンの生き方の素朴さ」と、「神への深い信仰」で、それ以外は二義的だと答えて下さいました。別の機会に、アルト神父はもう一つの点を加えました。それは「継続力」です。素朴さ、深い信仰、継続力、これが、私たちに神が望んでいることについての問いに対する創立者の答えだと言えるのではないでしょうか。新たにされた修道会の重要な特徴となります。

教皇フランシスコはこう書いています。「君も自分のいのちの全体性を、一つの使命として感じ取るべきです。祈りの中で神さまに耳を傾け、彼が君にもたらしてくれるしるしを認識するようにしてごらんなさい。君自信の使命に神が占める場所を識別するために、聖霊に向かって、君が生きているあらゆる瞬間や君が決断しなければならない一つ一つの選択において、イエスさまが君に期待していることは何かをいつも問い続けなさい…」(使徒的勧告『Gaudete et exultateGE:喜びなさい、大いに喜びなさい)』23)。識別と刷新のプロセスというものが、かなり強い要求に満ちたものになるであろうことは分かっています。それでも、修道者・宣教者としての私たちにとって、また他の人たちにとっても、私たちの生活の全場面、計画、行動において神のみ旨をたゆまず識別する以外ありえないのです。教皇フランシスコは、教会にとってどのような刷新をする場合にも本質的な三つの柱を強調しており、それはどの修道会にも同様に重要なものです。一つ目:イエス・福音を今一度中心に据えるべきである。二つ目:ほんものの回心。歩みにおいて方向性と導きを求めてもう一度主に目を注ぎながら軌道修正をすべきである。三つ目:この主との新たにされた出会いは主の名における宣教活動における生活の仕方、計画の立て方、参与の仕方にインパクトをもたらすべきである。教皇フランシスコは私たちに次のことを思い起こすように訴えかけます。「『祈りに満ちた識別』には、耳を傾けるという心構えから始めることが強く求められています。主に耳を傾け、他の人々に耳を傾け、いつも私たちに新しい方法で挑戦して来る現実そのものに耳を傾ける心構えです。…そのようにして、生活の安定を崩すけれど、より善い生き方に導く呼びかけを受け入れる心構えが本当にできていると言えるのです」(GE172)。

私たちの生き方の中心で神のみことばと共に生き、みことばに根差していると、みことばの分かち合いをするたびに、「神が私たちに何をしてほしいと望んでいるのか」という問いに対する答えをより多く見出すことになります。今日の朗読箇所は、総会議のテーマにばっちりはまっています。それぞれに刷新のプロセスという文脈における具体的なメッセージがあります。第一朗読はエゼキエルの預言(172224節)ですが、自然を例に出しています。私たちではなく主が、存在するあらゆるものの主人であることを、私たちに思い起こさせます。主があらゆる出来事をコントロールしているのだ。もし変化が必要ならば、主がものごとをひっくり返すのだ。死んでいる者に命を返すことができるのだ、と。詩篇作者(92篇)は、主に感謝することこそ善いことであると言い、生において善いものを支えておられるのは主であり、主が、善くないものが死滅することを容認するのだということを思い起こさせます。パウロはそのコリントの信徒への第二の手紙(5610節)の中で、主との刷新の歩みにおいて必要な本質的な要素をいくつか分かち合っています。神が私たちに求めていることは、いつも勇敢であること、見せかけではなく信仰のために歩むこと、主を喜ばせようと意識を高めることだ、と。マルコは成長する種の譬え話(42634節)の中で、神の国がどのように発展していくのかの神秘的な秘訣を再発見してほしいと求めています。蒔かれる種と同様に、神の言葉はたゆまず告げ知らせられなければなりません。そうして私たちが知らなくても成長し、実を結ぶのです。からしの種と同様に、私たちの貢献は小さく見えても、神は小さい者が何か大きく命をもたらすものに変われるようにして下さるのです。

 どのような識別や刷新においても、私たちの霊的生活と祈りの生活はいつも、私たちの外壁や境界線の外側にある世界や生活からの挑戦を受けているはずだということを意識せずにはいられなくなる可能性があります。これこそが、三位一体の神のより近くで成長し、同時に人々や世界のより近くで成長するようにとの呼びかけなのです。他者のない局面は、霊性の狭量な展望へと私たちを導きます(OC27)。歩みにおいて、回心の必要性を見出すのです。

 私たちの「霊性」において、新しく、より聖書的な神の似姿への回心の必要性があると言えます。「共同体・共同性」において回心は、いつも自分だけでやりたがる代わりに、一緒に所有し行動するために必要です。「リーダーシップ」には責任を負い、奉仕し、信頼するための回心が求められています。「財政」に関して言えば、透明性、連帯性、専門化への回心の必要性があります。「養成」の文脈においては、初期養成においても生涯養成においても回心は、他の色々なことがある中でも、習慣に変化をもたらし、新しい形で考えることを学ぶという挑戦と向き合っています。

 教皇フランシスコは、現状への満悦を避けなければならないと言い、こう続けています。「何かを変化させようとする意味などないとか、この状況を前にして何もできないとか、いつもこうだったけれど生きて来られた、と語る声が聞こえます。そう慣れ親しむことのせいで、私たちは悪に立ち向かうことはなくなり、物事が「今ある状態であるように」とか他の人がそうあるようにと決めてしまった通りであるようにと容認することになります。けれど、主を招き、私たちを目覚めさせ、私たちの眠気を覚ますために私たちを揺さぶり、慣れ親しんだことから私たちを解き放つために来ていただけるようにしましょう。習慣に立ち向かい、両目両耳をよく開き、何よりも心を開いて、私たちの周りで生じることや復活された主の生きた言葉、効力のある言葉の叫びによって居心地の良さから動かされるように身を任せましょう」(GE137)。

2.2. 「神が私たちにしてほしいと望んでいることは何だろうか」と自問した後で、「私たちが神に求めることができることは何だろうか」という第二の問いができます。私たちの現実の世界や教会、神言会を見ると、何が必要なのでしょうか。ここ数年、世界中の共同体でこの問いをして、多くの答えを頂きました。
・南スーダン:戦争の年代を経て、人々は癒しと和解を求めていた。
・ニカラグア、ブラジル、コロンビア、ベネズエラ:人々は平和と暴力の終結のために祈っていた。
・フィリピン、インドネシア、中国、ベトナム:人々は本物で正直な指導者を求めていた。
・世界中の人身売買の犠牲者、エイズを抱えて生きている人々は、正義、公平、共感を切望している。
・スロヴァキア、ウクライナ、ラトニア、アルバニア、クロアチア:社会主義の歳月を経て、生きる意味を求めようともしない人が増えた。
・ハンガリー:ミサの最中に一人の青年女性が立ち上がって、自分たちの家族の中に、より多くの愛が必要で、信頼することを学び直さなければならないと、不特定の参列者に訴えかけた。
・ドイツやオーストリア、オランダ、イギリス、アイルランドのような西欧の国々:多くの人が本物の友情や、忠誠、関係における継続力を失っている。信仰を学び直したり、希望を持ち直したり、よりしっかりした連帯を実践し直したりすることは祝福だと言う人もいる。
・インド:ある信徒指導者がミサの間に言った。「そちらの宣教師たちをここに送ってくださってありがとうございます。私たちと共に居てくれるようになってから、飲酒も、ケンカも、殺し合いもやめました。和解し合いゆるし合うことを学びました。子どもたちは学校に行くようになりました。飲み水も手に入るようになり、健康のためのサービスも身近になりました。すべてがより良い方向に変わりました。信じられないような、評価しきれないほどのサービスが提供されています」。
・環境を見てみると、世界中で働く多くの人たちにとって、神の被造物に対する配慮と憂慮が緊急の必要性となっている。

いつくしみの特別聖年の間、教皇フランシスコは回心と刷新のプロセスにおいていつくしみ深く憐れみ深い神に、ゆるしと互いにゆるし合う恵みを求めることができる、と強調していました。

 第18回総会の初めにあたって、私たちも自問できるでしょう。「個人として、共同体として、修道会として、私たちのため、全世界の80か国以上で私たちの宣教において共に歩んでいる人々すべてのために、神に何を求めますか」と。

3. 世界中の人々の回答をよく見ると、神に求めるものとして、平和、正義、真理、真正性、献身、和解、ゆるし、いつくしみ、共感、癒し、意義、愛、友情、素朴さ、忠実さ、継続力、連帯、希望、人の始まり、人の命、といった多くのものの重要性に気付くことができます。私たちはそうした要素なしで生き、働くことができません。また、そうした要素には値段がつけられず、買うことのできるものはない、ということに気付けます。生きていて一番大切なものには値段がなく、買うことができないのです。間違いなく、私たちの方でしなければならないこともあります。けれども、最期の時には、神にこれらを求める人々に与えられた本物の贈り物になるのです。だから私たちは、宣教者として、贈り物や善いものすべての与え主である神にまつわる話を分かち合い続け、語り続けるのです。ですから、宣教事業は、刷新されたとき、愛に駆り立てられ、みことばに根ざし、その使命に捧げられたものであることは重要であるし、重要であり続けるものなのです。

4. 終りに、創立者の言葉は私たちに、神言会の目標を思い起こさせてくれます。創立者は言います。「目標は、神言会が全体においてもそのメンバーたちも、忠実に神のみ旨を果たすようにと努力することにあります。このためには、まず、そのメンバーがより聖なるものとなっていくことが求められます。また第二には、神言会が神の御手の中で、より能力が高くより有益な道具となっていくために努力することが求められます。…このようにして、三位一体への賛美をますます推進することができるでしょう。そして特に聖霊への賛美をして、地において神のみ言葉を広め、み言葉と共に神の愛、キリスト者の徳である愛、聖なるみ国の恵みの大いなる宝を広めるのです」(『アルゼンチンとブラジルの司祭、修道者へ』1901123日、Arnold Janssen Reader, 2017, sec 321)。これも、私たちが見越した刷新の目標です。

 神言会の名において、ここにおられる方も、インターネットでこの開会式を見ておられる方も、愛する兄弟会員の皆さん、シスター方、宣教における信徒共働者の皆さん、恩人、協力者の皆さんに、そこにいてくださること、そこで行ってくださっていることに、感謝したいと思います。特に三位一体の神に、総会議の間、それから今後の未来において、その現存と導きを求めましょう。教皇フランシスコの言葉に合わせて祈りましょう。「聖霊が私たちに前進していくべきだと訴える時に、揺るがずにいられる恵みを主に願いましょう」(GE 139)

(第十一代神言会修道会総長 ハインツ・クリュケ)

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