第18回総会議 閉会ミサ
2018年7月14日 土曜日
「その名において - 弟子性のための手引き(真の幸福)」
回心への招き
愛する兄弟会員、シスター方、宣教における仲間の皆さん、
私たちの第18回総会議の終わりに当たって、三位一体の神に、わたしたちの間にいて下さったこと、審議のうちに、また兄弟的出会いのうちにいて下さったことを感謝するために集まりました。未来は、神の導きに依拠し続けており、同時に、主の名において識別し、その使命を果たしながら、創造的な刷新や新しいパラダイムのためのスペースをゆるしながら、わたしたちの生き方や習慣を変えるための開かれた姿勢にも依拠し続けています。わたしたちの総会議は、キリストの愛に促され、み言葉に根ざし、新たにその使命に献身しながら、「主の生き方がますます私たちの生き方になり、その結果として主の使命が、ますます私たちの使命となっていく」という展望を示す刷新の歩みにおいて重要な一歩です。この閉会の感謝ミサを始めるにあたって、わたしたちが歩みにおいて最も必要とするもの、つまり、そのいつくしみと共感を神に求めましょう。主よ、あわれみたまえ…
説教
愛する兄弟会員、シスター方、宣教における仲間の皆さん、
第十八回総会議の終わりにあたり神に感謝するために集まるに際し、神言修道会の名において、ここにおられる皆さん、兄弟会員をはじめ、シスター方、宣教の仲間たち、恩人、全世界で共に歩んでいる人々、皆さんの宣教を可能にするために寛大に分かち合ってくださったすべての人々にも感謝したいと思います。皆さんがいらっしゃらなければ、神言修道会は今日のようではなかったでしょうし、あらゆる生活環境の人々、特に貧しい人たちに奉仕しながら、全世界の多くの国々で行っていることを行うことはできなかったでしょう。今回の総会議の招きは、みことばであるイエスの生き方と宣教使命について黙想しながらの「弟子性のための指針」を見出すための再手引きであるし、有り続けるでしょう。主の導きを祈り求め続けなければなりません。
この閉会ミサのために選んだ福音個所、真の幸福に対するいくつかの考えを加えさせてください。「真福八端は、一種の啓示されたイエスの内なる伝記、一種のその姿のポートレートとなっています。…弟子であるとは、ということに関するインストラクションなのです…」と教皇ベネディクトは言っています(『ナザレのイエス』74)。さらに、最近、教皇フランシスコは「真福八端はキリスト者の身分証明書のようなものです」と加え、「一人ひとり、自分の仕方で、イエスが真福八端の垂訓で語っていることを行う必要性があります」(『喜びなさい、大いに喜びなさい』63)。刷新と変化には、イエス自身の生き方と模範に立ち返ることが求められます。そこから、わたしたちは「変化の霊性」へと向かうことができるのです。
真福八端 - マタイ5章1‐11節
1‐2節:「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。象徴的に語ると、この数十年、個人的、あるいは会の宣教修道生活を振り返り、刷新のコースや総会を行う為にネミに来た兄弟会員の多くにとって、そうしたコースはある意味、山の体験でした。主ご自身との新しい出会いの時、再考し学び直す時でした。これは第十八回総会議にとっても、同様なものになれたのではないかと思います。
3節:「心の貧しい人々は、幸いである」とイエスは言いました。
A. 神の前で自分自身の貧しさを受け入れることを学ぶことは、宣教修道者としてのわたしたちにとって、重要な務めです。ネミコースの後、様々な兄弟会員たちが、自分の生き方の真の意味、つまり神に奉仕することの意味を見出したと言ってくれました。それも、自分の貧しさや限界、罪のすべても受け入れて、場合によっては闇の中で歩きつまずきながら、正確にはどこにその道が向かっているのか、どこに導かれていくのかも知らずに、と言ってくれました。
ネミに来た兄弟の多くは、わたしたちが行えないこと、あるいは教皇フランシスコの言葉を借りれば「わたしたちがダメにしてきたこと」の責任はわたしたちにあるのではなく、主ご自身である、ということに今一度気づきつつ、この経験を持って家に帰ります。これは単なる道具になる体験であって、それで残りを神自身に信頼しきることができるようになります。さらに、これは多くのこれまでの総会議の間に私たちの理解となってきたものです。
B. 修道会として、わたしたちの幅広い建造物や信託基金、投資や保険政策にもかかわらず、神の前では、単に自分たちの貧しさを認識しなければなりません。結局、すべてが神によるのです。召命が無ければ、修道会は長年存続し続けないでしょう。もし主が寛大な人々の心に触れなければ、その仕事をするための方法を持つことはないでしょう。もし主がその和解の恵みを分かち合ってくださらないなら、癒しも協力もなかったでしょう。主がその主導権を持つに任せること、休符を入れること、識別すること、「主がわたしたちにしてほしいことは何か」を定期的に自問することは、想定される刷新と変化をもたらすことでしょう。この霊における貧しさを受け入れる人々にとって、イエスが言うには、「天の国はその人たちのもの」なのです。
4節:「悲しむ人々(泣く人々)は幸いである…」
A. 悲嘆は、周知のとおり、人生の苦しい部分です。誰も逃れられません。わたしたちは多くの理由で悲しくなります。愛する人の喪失は私たちの存在そのものの基盤を揺るがします。…しかしながら、しばしば悲嘆は一つの贈り物をもたらすこともあるのです。それは他の人々の必要に対するより大きな感受性というプレゼントです。というのも、あなたは自分の痛みの話しを思い起こすことになるからです。わたしたちにとっての愛する人や重要な人の喪失に加えて、友人や好みの使徒職、仕事の任命や構造を手放さなければならないという経験もあります。「宣教者はいつでも永遠のさよならを言わなければならない」とは、ある兄弟会員が私に言った言葉です。
B. 教会一般や私たちの修道会の最近の歴史のなかで多くの痛みを生んだ最も悲しい出来事の中に、何人かの兄弟会員による年少者に対するハラスメントや財政の悪管理、文化的無感覚、貧しい人たちの困難な状況に対する無関心、緊急に変わらなければならないことを帰るための開かれた姿勢の欠如などがあります。それでも、こうした問題に向き合うことは、多くの会員、特にリーダーシップの任を負っている人たちを、犠牲者たちや苦しむすべての人の必要に対してより感受性豊かにしました。
こうしたことをなぞり、対処できることをするのに加え、イエスは面倒を見、変えて下さる神の現存に信頼するようにとわたしたちを招きます。泣き、出発するに任せることを学ぶ人々は、慰められるだろうと言います。
5節:「柔和な人々(暴力を振るわない人々)は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
A. フィリピン南管区での私の最初の宣教で、多くの暴力を見ました。1986年に、軍事国家は終わりましたが、それでも世界の他の場所で似たような状況の良く知られた関連のことすべてをもって闘いや抑圧は続きました。私はすぐに、暴力は暴力に対する相応しくない応え方だが、それでは平和も正義もなく、結果として、発展もない、ということも学びました。和解の意味は、わたしにとって、わたしたちキリスト者の信仰の鍵となるメッセージになりました。
皆さんには皆さん自身の経験があるでしょう。正義を行わなかった者をゆるし、忘れることは、どれほど難しいことでしょう。
B. この六年間の私の訪問の間に、宣教師たち、もと兄弟会員たち、信徒の宣教の仲間、特に私たちの宣教活動において信頼されてきて、暴力や不正に抑圧されてきた人たちと話しをしてきました。暴力をもって暴力に応えず、正義と和解のあり方を模索することは、総会議の後に来る時のためのたゆまぬ挑戦です。個人レベルでも、わたしたちの共同体でも、世界一般でも、あらゆるレベルでの対立を取り扱うようにとの呼びかけが存在しています。イエスは、もし彼に信頼を置くならば、人間の手を介しては達することができないことが、恵みによってもたらされると言っているのです。
6節:「義に飢え渇く人々は、幸いである…」
A. 人々、特に貧しい人たちの近くで生きると、この正義の飢えや渇きが感じられます。あまりにしばしば私たち修道者の組織や建造物は人々から安全な距離を保ちます。そのようにして、飢えも渇きもなくなります。しばしばこんなコメントを聞きます。「もう十分やってます」、「結局何も変えられないんです」。宣教修道者として、わたしたちは自問できます。「正義の飢えと渇きは私たちの生活の一部であり続けているだろうか」と。過去において、ネミの刷新コースは兄弟会員たちがこの正義の飢えと渇きを体験し直すのに役立ってきました。総会議後の時間も、この正義の飢えと渇きを再発見することは、どのような刷新のプロセスにおいても重要な役割を果たすでしょう。
B. わたしたちのような宣教修道会は、多くの国々で苦しむ人々、搾取されたり貧しくされたりした人々のそばにいるので、正しいことへの飢えと渇きをあきらめたままにするわけにはいかないのです。もしそんなことをしてしまえば、速攻で神言会は無意味なものになるでしょう。「この世界がより良い場所になるようにと貢献し、物事をより良くするために私たちには何ができるだろうか」。…こうしたことを問う人々は、「満たされる」だろう、とイエスは言っています。
7節:「憐れみ深い人々は、幸いである…」
A. 聖書の物語の多くが、とても具体的に神のいつくしみと憐れみを示しています。サマリア人の話しは、一つの譬えに過ぎません。展望の変化を提案しています。最初の問いは、「わたしたちが立ち止まって助けたらわたしたちには何が起こるのだろう」であってはなりません。むしろ「もし私たちが見て見ぬふりをして通り過ぎたらその必要にある人はどうなってしまうのだろう」でなければならないのです(マルティン・ルーサー・キング)。立ち止まることも助けることもなく通り過ぎるのは、マンネリ化した罪です。そのように、わたしたちは必要にある人々の前を通り過ぎ、苦しみの環境にいて目を閉ざしているのです(『ラウダート・シ』)。わたしたちが通り過ぎてしまった自分の話しを思い出すこともできるでしょうが、きっと、立ち止まり、助けたという話しももっとたくさんあるでしょう。また、わたしたちが必ずしもいつもサマリア人なのではなく、時にわたしたち自身がよきサマリア人を必要としていることに気付くことは重要です。
B. 「神言会のような修道会のない世界は、もっと貧しい場所になっていただろう」とは、何度も私が分かち合ってきたことですが、この考えは世界中の国々で宣教師の皆さんを訪問しながら私の脳裏に浮かんだものです。神が修道会を必要にある人々を数多く助け、その信仰を強め、その生きる意味を見出し、尊厳ある教育を受け、情報に通じさせ、健康のためのケアを受け、正義や人がそれなしでは生きられないこと、特にいつくしみや憐れみを獲得するようにするための道具として用いていることは、当然すぎるほど当然です。通り過ぎない人々、憐れみ深い人々は、憐れみを受ける、とはイエスの言っていることです。
8節:「心の清い人々は、幸いである…」
A. 神を見ることのできる状態は、見いだしづらい条件と共にやってきます。清い心です。わたしたち自身の生活に、たゆまず長続きのする変化を導入することは、難しいと知っています。悪い習慣や悪いこと、ミサの回心の儀で口にしている「思い、言葉、行い、怠り」を変えることは難しいものです。回心のたゆまぬ務めがあるのです。
B. 「神言会の心」を清めるために必要なことは何だろうか。今一度、この心を清めてください。傷ついた会員を癒してください。無責任な兄弟に立ち向かってください。悪い習慣を変えてください。相応しくない構造やプログラムが終わりを告げ、新たに始められるようにして下さい。教会も各修道会もこうした刷新を必要としています。それはふさわしい時期でしょうか。兄弟会員たちには心構えができているでしょうか。私の心構えはどうでしょうか。こうした問いは、第十八回総会議の終わりにも、これから先にもできる問いです。これが生じるようにと認める時のみ、神を見ることになるのです。もう一度イエスの生き方と宣教を、皆さんの生き方と宣教にすることはできますか。
9節:「平和を実現する人々は、幸いである…」
A. 平和の内にいること。ネミでの総会議の後、と平和を携えて家に帰ること、そしてどこでどのように平和を見出すことができるかを学んで帰ること。これは、前にここに来た多くの人に生じたことです。…自分たち自身や他の人々、神と平和のうちにある兄弟たちも、国際的で諸文化の交わる私たちの宣教修道共同体において重要な証し人なのです。わたしたちの仲間の信徒たちにとっても重要ですが、神言会のより若い世代がその宣教修道生活において意味を見出すためにも重要です。きっと若い人たちが一つになり、他の人たちが継続できるようにするのを助けるのに貢献するでしょう。平和の内にいることは、共に生活し仕事をする在り方において違いを見せることになるでしょう。
B. 何世代もの間、世界の多くの場所で、わたしたちの修道会は平和建設に貢献してきました。しかしながら、今日の私たちの世界でどれほど平和が不足しているかも知っています。そのために祈り続けましょう。けれど、わたしたちの側でしなければならいことはしましょう。わたしたちは、神の唯一の子らなのです…
10節:「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
A. 義のテーマが再び戻ってきます。わたしたち自身の生活において、正義が重要なことは分かっています。しかしながら、わたしたち個人の生活においても、修道会においても、一般的に世界においても、単純に、多くのことがよくありません。
B. 物事をどうまっすぐにできるか、一般に私たちの世界でも神言会においても物事をよくするにはどうすればいいか、自分の居心地のいい領域や最低限のもので満足しない状態から出ていくように兄弟会員たちを盛り上げるにはどうすればいいか、といったことは、祈りを必要とする挑戦です。そこには対話も、誠実に向き合うことも求められます。それは長く、たゆまず、一生をかけて行われるプロセスであって、総会議をすれば終わるものではありません。
11節:「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
A. 「わたしのために、わたしの名において」…最後になってのみ、イエスは自分を中心に据えます。人生の様々なことで埋まってくると、時々私たちは、宣教はイエスのものであって、単純に、わたしたちのものではないということを忘れてしまいます。マザー・テレサがそのシスターたちの仕事について「わたしたちは何かのためではなく、誰かのためにこれを行っているのです」と言った通りです。そしてこの「誰か」が、ネミにおける神言会の第十八回総会議の間、わたしたちに、ご自身を中心に据え直すようにと求めている方なのです。ヤンセン神父の人生のように、主における生活の素朴さと深い信仰は、必要な刷新をもたらし、わたしたちが継続できるようにしてくれるでしょう。
B. 刷新とは、イエスを中心に返すこと以外の何物でもありません。これが、教皇フランシスコが三重の実現すべき務めとして行っていることです。「イエス・福音をわたしたちの中心に据えること、そしてこれには一つの回心、一つの変化が続かなければなりません。主を見つめること、主がわたしたちを呼んだ方であって、わたしたちをもう一度呼んでおられる方であることを思い起こすこと。もう一度出かけて行き、その名において宣教を行うために」。
終りに、教皇フランシスコの言葉を用います。「イエスへの歩みを進めるたびに、わたしたちは彼がすでにそこにいて、両腕を広げて私たちを待っておられることに気付きます。今は、イエスにこう言う時です。『主よ、わたしは騙されてしまいました。何千もの仕方であなたの愛を避けました。それでも、今一度、わたしのあなたとの契りを刷新するために、わたしはここにいます。あなたが必要です…』」(『喜びなさい、大いに喜びなさい』3)。そして勧告の後の方で、教皇は(ヨハネパウロ二世を引用して)こう書いています。「もしわたしたちがキリストの観想から始めてきたのなら、イエス自身が自分のものだと定めることを望んだ人々の顔の中に何よりもイエスを見出すことができなければなりません」(『喜びなさい、大いに喜びなさい』96)。それは、貧しい人たちであり、疎外された人たちのことです。「彼(主)に捉えられると、わたしたちは自分のカリスマのすべてを他の人々に奉仕するために用いるように自分を鼓舞します。わたしたちがその愛に駆り立てられていると感じていたいものです(IIコリント5章14節)」(『喜びなさい、大いに喜びなさい』130)。わたしたちの創立者アーノルド・ヤンセンはわたしたちをこう励ましています。「神へのまったき信頼をもって進みなさい。そして改めて、自分の人生を聖なる謙遜のうちに立て直しなさい。そうすれば、神である主はあなたとともにいてくださいます」。
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